10年かけて、たった一人で避難の山を造ったシニアの物語③(最終話)

「柱の木材も、プロパンガスも
避難者用の備蓄飲料水も食べ物も
一つずつロープで体に結び付けて
切り開いた山道を何度も往復して
運び込みました」

五つ星シニアを探せ!
WEB版

週刊連載「五つ星シニアを探せ!」
河北新報2021年11月4日掲載


「起こるはずがない」と言われ続けた
大津波が現実のものとなり
「おさとうやま」に避難して
命を守られた人は70人以上に及びました。
しかし中には
一旦、山に避難したものの
「指定避難所になっている
(低地にある)小学校に移動する」
「家族の様子を見てくる」と下山し
津波に飲み込まれ
帰らぬ人になってしまった住民も
いらっしゃったそうです。


東北の沿岸部ではどこでも
同じような悲しい話が
多く語り継がれています。
ほんの少しの「きっと大丈夫」が
命の別れ目になりました。


この野蒜地区では
指定避難所であった小学校の
体育館に津波が押し寄せ
そこへ避難した多くの方の命を
奪ってしまいました。
そしておさとうやまの避難所を気に入り
「喫茶去苑」と名付けてくれた
叔父さん夫婦も
残念ながら津波の犠牲になって
しまったそうです。


あの日、たくさんの悲しい別れを
経験してしまった佐藤さん。
「だけどここを
悲しい場所、辛いだけの場所に
したくないんです」
「だってここはこれからも
次に来る津波のための
避難所であり続ける所だから」
静かな声で言い切る佐藤さんの
信念の強さに
ハッとさせられました。


「おさとうやま」には
数十本もの桜の木のほかに
桃、りんご、ブドウ、キウイや
アフリカ原産のポポーなど
様々な果物がたわわに実る、
素敵な「公園」があり
今では
小鳥の声を聴きながらお茶を飲み、
くつろぐために訪れる方が多いそうです。


これからの避難所は
平時に「立ち寄りたくなる場」であること、
つまり、何度も立ち寄って
ルートが頭に入っていることが
災害時の確実な避難に
結びつくのではないか?と感じました。


防災はもちろん、
信念を貫くこと、
年齢に負けないこと、
地域の将来を守ること。
多くの気づきを与えてもらった取材でした。